日月神示
日の出の巻 第8帖
ヒフミの食べ物に病無いと申してあろうがな
一二三の食べ方は、一二三唱えながら噛むのだぞ
四十七回噛んでから呑むのだぞ
これが一二三の食べ方頂き方だぞ
神に供えてから、この一二三の食べ方すれば
どんな病でも治るのだぞ
皆の者に広く知らせてやれよ
心の病は一二三唱える事に依って治り
肉体の病は四十七回噛む事によって治るのだぞ
心も身も分け隔て無いのであるが
会得(わか)る様に申して聞かせているのだぞ
取り違い致すでないぞ
この世はみな神のものざから
臣民のものと云ふもの一つもないぞお土からとれた物、みな先づ神に供へよ
それを頂いて身魂を養ふ様になってゐるのに
神には献げずに、臣民ばかり喰べるから
いくら喰べても身魂ふとらぬのぞ
何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ
今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ
日本には五穀、海のもの、野のもの、山のもの、
皆人民の食ひて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ、
日本人には肉類禁物ぢゃぞ。
一二三祝詞は、文字数が合計で47。
日月神示 「一二三祝詞するときは、神の息に合はして宣(の)れよ、神の息に合はすのは三五七、三五七に切って宣れよ。しまひだけ節(ふし)長くよめよ、それを三たびよみて宣りあげよ」
神の息に合はすのは、三五七に切って宣る。
ひふみ祝詞(○印拍手)
○○○ひふみ○よいむなや○こともちろらね○しきる○ゆゐつわぬ
○そをたはくめか○うおえ○にさりへて○のますあせゑほれけ。
いろは祝詞(○印拍手)
○○○いろは○にほへとち○りぬるをわかよ○たれそ○つねならむ
○うゐのおくやま○けふこ○えてあさき○ゆめみしゑひもせすん。
日月神示 下つ巻 第七帖
一二三祝詞するときは、神の息に合はして宣(の)れよ、
神の息に合はすのは三五七、三五七に切って宣れよ。
しまひだけ節(ふし)長くよめよ、
それを三たびよみて宣りあげよ。
天津祝詞の神ともこの方申すぞ
日月神示 キの巻 第一帖
節分からは手打ち乍ら、ひふみ祝詞 宣(の)りて呉れよ、
拍手は元の大神様の全き御働きぞ、
タカミムスビ と カミムスビの御働きぞ、
御音(おんおと)ぞ、和ぞ、大和(だいわ)のことぞ、
言霊ぞ、喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ。
節分境に何も彼も変りて来るぞ、何事も掃除一番ぞ。
【ひふみ祝詞】森羅万象と交響し、宇宙と同化する大いなる言霊の力(一二三祝詞)
この動画の概要欄の解説がとても良いので、ここに引用させていただきます。引用が問題があれば削除します。
「ひふみ(一二三)祝詞」、平仮名の四十七音(濁音、半濁音を除く)から構成される祝詞ですが、その由来は諸説あり明らかになっていません。 その謎・神秘性から良くも悪くも人々を惹きつけてきました。
「曰くつき」ということで安易に口にすべきではない祝詞と言われたりもします。事実、様々な謂れ・解釈がありますが、個人的にその真偽・正統性をここで検討することは致しません(比較検討する過程で、お読みになる方に「心の乱れ」が誘引されるなら それは本末転倒ですから)。
ただ、間違いなく断言できることは「正しく詠唱すれば」間違いなく大いなる言霊の力が授けられるということです。では、「正しい詠唱」とは何か? この点について細かく指導される方もおられますが、 外せない基本であり、かつ到達点は「心を無にして祝詞の音と同化すること」です。
【祝詞の意味】を考える必要はありません(思考領域を超えています)、一音一音を意識しながら発声し、自らが「神の楽器」のように心身の中心から「音を交響」させることができれば、その神威が体感できるはずです。
その神威とは森羅万象・宇宙と交響・同化する己自身そのものです。 その意味では「形式」に過度に囚われる必要はありませんが、畏れ多い存在を前にして最上の敬意を表すにはどういう振舞いをするか?と問えば、正道は外さないと思います。
なお、拍手を打ちながら奏上することが推奨されていますが、個人的には非常に有益だと感じます。この動画では「拍手」を入れていませんが、手拍子を入れながら「全身で楽しく明るく歌うように」奏上するのが最上の「ひふみ祝詞」です。
自身が「神の遣い」として神威に「神楽(かぐら)」を奉納すると言うのが近いかもしれません。それ故に「その神楽の音調」と同化することで、神威と一体化する…と。 自らという「楽器=神楽の器」を調律するのは容易ではなく、一朝一夕にできるものではありませんが、日々意識的に詠唱・調律していれば「この感覚!」という自身の調和点に突然導かれるでしょう。
また、「ひふみ祝詞」は3回繰り返した後、「ひふみ ゆらゆら ゆらゆらと ふるへ」と終える形(その内容も論者で異なる)が理想とされますが、上で述べたように「音との交響」こそ全てなので、「形式」はゆっくり整えて行かれるが宜しいかと思います。 繰り返しますが、「無心」が大切です。
浄化しよう 邪を祓おうとか願いを引き寄せようなどの考えはひとまず置いておいて、ただただ心静かに「有り難く音と一体化する」ことです。祝詞と同化したその者自身が神器・神域パワースポットとなる、それが「ひふみ祝詞」の神髄です。
これを唱えながら噛むとありますが、もちろん声を出しながら、噛んで食べることはできないので、私は心の中で、一二三祝詞を唱えて食べています。
47回を数えるのは面倒ですが、一二三祝詞が47文字なので、便利です。
噛む回数は、あまり気にしなくてもいいと思います。
一口にだいたい47回くらいのつもりで。
ひふみともこさんも一二三祝詞について書いています。
神に最も近づく祈り「いろは」「ひふみ」
一二三祝詞は、高天原の神の界にも、声は届いて共鳴する。
一二三祝詞の意味を知らず、音のみでも祈りは届く。
何度も噛むことは、とても健康に良い。
食べ物が唾液と混ざり細かくなって、消化が良くなる。
小さい頃からよく噛むことで、顎が鍛えられる。
注意点は、強く噛みすぎたり、歯が弱かったり、かみ合わせが悪いと、歯を痛めることがあります。普通の力で噛むこと。
歯医者で、かみ合わせを治してもらいました。
「神に供えてからこの一二三の食べ方すれば、どんな病でも治るのだぞ」
どんな病でも治ると、言い切っているのがすごい。
「心の病は一二三唱える事に依って治り
肉体の病は四十七回噛む事によって治るのだぞ」
心の病と肉体の病では、治し方が違う。
各人の病気によって、治し方を変えること。
現在は、私は病気ではないので、この食べ方で病気が治る体験は、ないのですが、ガン、糖尿病、高血圧、うつ病など治療が困難な病気の方は、試してみてもいいと思います。
病気が快方へ向かうでしょう。
日月の巻 第25帖
臣民一日に二度食べるのざぞ、
朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、
それがまことの益人ぞ。
食事は朝は日の神様に、夜は月の神様に捧げてから頂く。
食べざかりの子供は、3食が良いですが、中年以降は、1日2食でも良い。
3食なら腹七分くらい。
食べ過ぎは不運になるし、健康にも悪い。
日月神示をよく読むと必ず病気が治る
日月神示をよく読むと身魂磨きになり必ず病気が治る。
「この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ」
と書いているので、洗濯が終わるまで読み続けること。
日月神示を声に出して読んでくれとも書いている。
日月神示
富士の巻 第13帖
この神示よく読みてさへ居れば病気もなくなるぞ、
さう云へば今の臣民、そんな馬鹿あるかと申すが よく察して見よ、
必ず病も直るぞ、それは病人の心が綺麗になるからぞ、
洗濯せよ掃除せよと申せば、臣民 何も分らんから、
あわててゐるが、この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ、
神は無理は言はんぞ、神の道は無理してないぞ、
よくこの神示読んで呉れよ。
よめばよむほど身魂みがかれるぞ、と申しても仕事をよそにしてはならんぞ。
臣民と申すものは馬鹿正直ざから、神示よめと申せば、
神示ばかり読んだならよい様に思うてゐるが、裏も表もあるのぞ。