日月神示には、何度も繰り返し「身魂みがき」が大切であると書いている。
これまでにも、このブログで「身魂みがき」を何度か書いてきました。
日月神示によると、やがて地球に大峠が来る。
大峠を越すには、身魂を磨いて、神が人に懸かることが必要だという。
神と人の振動数が大きく違うと、神が人に懸かることができないらしい。
そのために、身魂を磨いて人の振動数を上げておくことが大切。
私もまだ、神が人に懸かることは信じられないですが、おそらく真実だと思います。
日月神示の神懸かりについての文章を引用します。
かなり長いです。
日月神示 富士の巻 第5帖
この世のことは神と臣民と一つになりて
出来ると申してあろがな
早く身魂みがいて下されよ
外国は 、神の国は と申してあるが、
は神ざ、 は臣民ぞ、
ばかりでも何も出来ぬ、
ばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、
それで神かかれるやうに早う大洗濯して
呉れと申してゐるのぞ、神急(せ)けるぞ、
この御用大切ぞ、
神かかれる肉体 沢山要るのぞ。
今度の行は を綺麗にする行ぞ、
掃除出来た臣民から楽になるのぞ。
どこに居りても掃除出来た臣民から、
よき御用に使って、神から御礼申して、
末代名の残る手柄立てさすぞ。
神の臣民、掃除洗濯出来たらこの戦は勝つのぞ、
今は一分もないぞ、一厘もないぞ、
これで神国の民と申して威張ってゐるが、
足許からビックリ箱があいて、
四ツん這ひになっても助からぬことになるぞ、
穴掘りて逃げても、土もぐってゐても
灰になる身魂は灰ぞ、
どこにゐても助ける臣民行って助けるぞ、
神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、
臣民も神も一緒に助かるのぞ、
この道理よく腹に入れて呉れよ、
この道理分りたら神の仕組はだんだん分りて来て、
何といふ有難い事かと心がいつも春になるぞ。
日の出の巻 第21帖
神かがりと申しても七つあるのであるぞ、
その一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ、
ガカり、かみかかり、か三かかりぞ、
(カミ)ガカリぞ、 (かみ)かかり、
か三かかり、かみかかりざぞ、
神かかってゐないと見える神カカリが
誠の神カカリと申してあろが。
そこらに御座る神憑りは
五段目六段目の神憑りぞ。
神カカリとは惟神(かむながら)の事ぞ、
これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。
惟神の国、惟神ぞ、
神と人と融け合った真事の姿ぞ、
今の臣民のいふ惟神では無いぞ、
此の道理 会得りたか、
真事の神にまつりあった姿ぞ。
悪の大将の神憑りは、神憑りと分らんぞ、
気つけて呉れよ、
これからは神カカリでないと
何も分らん事になるのざぞ、
早う神カカリになる様 掃除して呉れよ、
神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ。
一二三唱へよ、祓えのれよ、神称へよ、
人称へよ、神は人誉め
人は神称へてまつり呉れよ、
まつはり呉れよ、あななひ呉れよ。
富士の巻 第9帖
この世は人間に任せているのだから
人間の心次第ぞ
しかし今の臣民の様な腐った臣民ではないぞ
いつも神懸かっている臣民ぞ
神懸かりと直ぐ分かる神懸かりではなく
腹の底にシックリと神鎮まっている臣民ぞ
それが人間の誠の姿ぞ
上つ巻 26帖
神祀るとはお祭りばかりでないぞ、
神にまつらふことぞ、
神にまつらふとは神にまつはりつくことぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつはりつくとは、
子が親にまつはることぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつらふには洗濯せなならんぞ、
洗濯すれば神かかるぞ、
神かかれば何もかも見通しぞ、
それで洗濯洗濯と、
臣民 耳にたこ出来るほど申してゐるのざ。
シルバーバーチ
シルバーバーチは、人と霊や霊と霊の間のバイブレーション(振動数)が大きく違うと、近づけないと言っている。
身魂をみがいて振動数を上げないと、神懸かりにならない。
シルバーバーチ
私たち霊界の者はできるだけ地上の人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どの程度まで接近できるかは、その人物の雰囲気、人間的成長の度合、霊的進化の程度によります。
霊的なものに一切反応しない人間とは接触が取れません。
霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人間とはすぐに接触が取れ、一体関係が保てます。
それは必ずしもスピリチュアリストばかりとは限りません。
知識としてスピリチュアリズムのことは知らなくても、霊的なことが理解できればそれでいいのです。
とにかく冷静で受容的な心を保つことです。
取り越し苦労、悩み、心配の念がいちばんいけません。
そうした低級な感情が周囲にモヤを生みだし、私たちを近づけなくするのです。